合気道の歴史

1882(明治15)年、嘉納治五郎は講道館を創立し、ここに新時代の武道がスタートを切った。 嘉納は磯又右衛門(正智)の天神真揚流柔術の乱取りを練習方式として採用し、加えて組織的な練習方法と集団指導方式の工夫により、大量のしかも優れた柔道家を生み出した。技術論、指導論ばかりではなく、宣伝力と組織力においても優れた才覚を持った彼は、警察の正課採用をはじめ、天覧試合、海外普及等等柔道の社会的発展と講道館の組織拡充に辣腕を振るった。ひとつ武道の世界においても嘉納はこのような時代の表舞台に立った者であったが、他方、彼と時代をともにしながら、これとは反対に終生野において一度も光を浴びることなく、卓抜した武道人としての使命を全うした者があった。それが、大東流合気柔術家、武田惣角であった。

大東流と武田について、竹内博は次のように述べている。

「現在の合気道は、その端を『大東流合気柔術』に発しています。この大東流というのは、起こりは清和天皇の第六皇子・貞純親王にあると言われ、親王の長子・経基をへて源家代々に伝わり、源義家の弟・新羅三郎義光に至って現在の合気道の基礎がつくられたといわれています。義光は、クモが細い糸で大きな虫を巧みに捕らえるさまから技のヒントを得、また、戦死体、あるいは罪人の死体を解剖して人体の構造を調べ研究したと言い伝えられています。」「義光の第二皇子・義清が甲斐の武田に住み、武田姓を名乗るようになってから武田家秘伝の武芸として門外不出のまま代々伝えら れ、天正2(1574)に武田国次が会津にくだって芦名盛氏の地頭になってからは、その子孫が代々継承し、『会津お止め技』となっていたようです。その後ほとんど世に知られずに伝わっていたのを、明治になってから武田氏の末孫・武田惣角先生がはじめて一般に公開するようになりました。」(塩田剛三著『合気道』)

 この前半の大東流についての記述内容は、竹内自身も述べているように、あくまでもいわれであり、史実としての実証性に乏しい。いわゆる武芸流派の開祖伝説と思われる。史実として見ることができるようになるのは、会津以降のようである。会津に伝えられたという技術の内容がいかなるものであり、その後どのような工夫改良が加えられたかは定かではない。総合武術として大体系をなすに至ったのは、江戸時代後半のことである。

 江戸時代後半期は、前半期において細分化された武芸諸流の技術に、整理・統合作用が働き始めた時期である。特に末期には、各種武術間の関係づけと融合が、東北諸藩を中心として高度に蓄積された。盛岡「柳生心眼流」、南部「諸賞流」、水戸「水府流」、そして会津「御式内」すなわち大東流等がその代表的存在である。剣・槍・素手の技術を連関融合した大体系の武術として、中でも大東流はその最高の段階へ進んだものであった。

  鶴山晃瑞によれば、御止め武道として門外不出であった御式内を伝承普及すべきであると考えたのは、会津藩最後の西郷頼母(のち保科近真と改名)であるという。西郷は、その養子西郷四郎(姿三四郎のモデルになった柔術家、講道館四天王の一人)が伝承の任務を放棄したため、武田惣角にその任務の全権を与えることになった。1898(明治31)年西郷頼母69歳、武田惣角 41歳のときのことであった。以降、武田は全国を旅しながら巡回個人指導を始めた。大東流の優れた技術と彼の精力的な普及活動は、明治末から昭和にかけて多くの優れた弟子を輩出させた。植芝盛平、堀川幸太郎(号幸道)、佐川幸義、山本留吉(号一刀斎角義)、久琢磨、松田豊作、奥山吉治等がその代表的な者たちである。武田が一切の組織化を否定して生きてきたこと、および武田の弟子たちに優れて個性の強いものがそろっていたことのために、彼らの多くが、いずれもその後独自の組織を形成し、程度の差はあれ近代的な形式を整え、各々理念・指導等に工夫を加えながら現在にいたっている。

 こうしたものたちの中で最も自らの工夫・独創を多く加え、ついには新しい武道を誕生させるまでに至らしめた者が、合気道創始者、植芝盛平である。

 植芝は、初め起倒流の戸沢徳三郎、次いで柳生流の中井正勝に師事し、1908(明治41)年、25歳で柳生流の免許を受けた。その後も多くの武道諸流に触れ、自らの工夫を重ねる中で、大東流の武田惣角に出会うことになる。

 植芝盛平監修・植芝吉祥丸著の『合気道』によれば、植芝は1910年4月、開拓の目的で北海道に渡り、翌1911年、彼の地で武田に初めて会ったという。前掲書の一節に、「惣角師範は非常に小柄であったが、実に達人であったので、道主(植芝盛平のこと、引用者注)は深く傾倒し、最初は久田旅館(武田の宿所、引用者注)で、ずるずると1ヶ月、その後大正元年更に自宅へ迎えて師事し、食事の調理から風呂の世話まで、何事によらず一切自分の手で行い、ついには家まで新築してさし上げた。なかなか気性のはげしい人で、修行中の弟子に対しては峻厳そのものであったが、道主は己を空しくし寝食を忘れて、全精力を注いで修行に努めた。」とあり、植芝の当時の生命をかけた修行の様子を知ることができる。

 植芝が直接武田の指導を受けたのは日足らずであり、そのためか、彼が大東流の奥伝にまで到達していないという指摘(鶴山ら)がみられる。しかし、植芝クラスの天才にとって、100日という期間、師と寝食をともにし指導を受けたことは、師の武道のエッセンスをとらえるに十分すぎるものであったというべきであろう。それに、合気道が大東流と技術的に同一のものを持ちながらも、大東流の持つ驚くべき理合難解さ(それはときにパズル以上のものである)、体系の巨大さから解放されて、いかにも合気道らしい明快さ、優美さ、スピード感を身につけていくことができたのは、その期間が短かったことも幸いしてのことであったろう。1916(大正5)年には、同流の允可を受けたという。植芝の修行は、ひとつ武道にとどまるものではなかった。幼少時より人並はずれて心の修行に関心が深く、7歳(1890、明治23年)で真言宗の、10歳で禅の体験を積んでいる。

 しかし、植芝に理念のうえで決定的な影響を与えたのは、何といっても大本教の出口王仁三郎である。出口は、旧来の習弊にとらわれぬ新宗教を建設し、それによって大東亜共栄を図ろうとした宗教家、政治社会運動家であった。彼の中心的理念であった人類愛善主義は、彼の合気道の理念形成において、その中核的な役割を担うことになったと考えられる。植芝が大本教に帰依したのは、1919(大正8)年であり、1922年には大本教の組織で武道教室を開催したという。武道教室開催について自ら招聘した武田より、大東流教授代理の資格を受けた。このとき以降、植芝は武道の指導者としての道を歩むことになる。彼の武道(この時点では未だ合気道という名称はなかった)は、(大東流を中心とした各種の柔術・剣術・槍術等の修行に自らの工夫を加えたこと、大本教の理念を取り入れ、自らの理念の究明と理念に調和する技術および練習方法等の工夫をしたこと、)講道館柔道が行っていた集団指導方式に近い方式を採用したことをその特性として打ち出しつつ、次第に独自の道を確立していくことになる。彼は、武道の指導者として、嘉納的な近代性・革新性、武田的な伝統性・保守性、そして出口的な宗教性・政治社会性を併せ持った、複雑な人物であったといえよう。

 彼が武道の指導者として道を歩み始めた時代は、日本が軍国主義へと傾斜を強めていく時代であり、海軍を中心とした上級軍人の知遇を得たことは、彼の組織の発展において大きな力となった(後年、植芝は軍人に戦争のための武道を指導したことを反省している)。

 1932 (昭和7)年、武道宣揚会発足、1934年皇武会合気柔術武道解説書の発行、1940年財団法人皇武会認可、1942年植芝の弟子(当時皇武会道場総務)平井稔が武徳会に合気道の名称登録をする。そして1944年天真合気道として、はじめて正式に合気道の名称化をなした。1948年武産合気道と改称する。

 こうした名称変更の頻繁さは、彼の時代感覚と、合気道というものの性格の一面を示していて、たいへん興味深い。ほかの武道家、武道にはけっして見ることのできない植芝合気道の特殊性である。

 ほかに植芝の業績として看過できないものに、講道館員等への合気道の指導がある。これは、 1930(昭和5)年嘉納治五郎が植芝の演武を一見して「これこそ柔道の精髄」と賛美し、自らの弟子を植芝道場に入門させた。美談として語り伝えられているものである。このときの講道館派遣生の一人が望月稔である。望月はその後も長く植芝のもとで研鑚を積み、有力な合気道家として現在に至っている。このように嘉納が送ったもの以外にも、数多くの柔道家が植芝の門をたたいた。その一人が富木謙治である。 かくして合気道は戦後を迎えるわけである。

 合気道の戦後史は、1)財団法人合気会の発足とその飛躍的発展、2)分派の発生、3)海外への普及の三つのモメントにおいて展開される。財団 法人合気会は、戦前の皇武会の後身として、1948(昭和23)年2月、文部省の認可を受けた。戦後の合気道の復興と発展は、植芝盛平の嫡嗣である植芝吉祥丸を中心として行われた。

 合気道の一般への普及の糸口は、1956(昭和31)年、日本橋高島屋での演武会を機に開かれていった。これ以降、学校、会社等での説明演武会が次々と行われるようになり、大学をはじめとして多くのクラブ、または各地に支部道場がつくられていった。戦後はまた分派の発生の時代でもある。植芝盛平は戦前・戦後を問わず数多くの直弟子を育てたが、それらの内の大半が合気会系の指導者として活躍する一方で、また何人かの有力な者たちが独自の組織をつくり、理念や技術に工夫を加えるなど、各々の特徴を発揮しながら、現在に至っている。

 それらの中には、はっきりと別種の武道として存在するもの、流というほどでなく単に派程度の段階にとどまるものなど、多岐にわたっている。井上与一郎(号方軒)、富木謙治、望月稔、平井稔、また塩田剛三、藤平光一といった人々がそうした者の代表的存在である。

 しかし、合気道界は何といっても植芝盛平という巨星をともに師と仰ぐものたちによってのみ構成されているのであり、「絶対の和」を唱導した創始者の教えも効あってか、徒な争いは全く存在しないといってよい。それどころか、植芝吉祥丸が語っているように、そうした人々は「それなりに特異な存在として合気道の幅広さを物語っている」として、冷静に互いの存在を肯定しているのである。

 国外は、ヨーロッパ、アメリカを中心として八十余カ国にその足跡をしるしつつある。日本からの派遣指導員の数も200名を越すという。現在では外国人の指導者も多くなり、優秀な者も少なくないという。日本人の合気道家が驚くような新しい合気道への取り組み、またその活用を始めているものも多い。

The Ultimate Athlete(『魂のスポーツマン』)の著者ジョージ・レナードおよびその合気道の指導者であるロバート・ナドウらは、そうした者の中の代表的存在である。存在論の実践的究明の手段、あるいは他の文化、演劇・舞踊・各種のサイコセラピーとの融合等々に、外国人の努力が見いだされる。1975(昭和50)年11月、合気会本部を中心として、国際合気道連盟(IAF)が結成された。現在加盟国は80ケ国をかぞえるまでになっている。

 




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